ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯
12.フンメルの性格
●フンメルは大成功を収めたのにもかかわらず、基本的には気取らない温かい人物であったように思われる。弟子のヒラーはワイマールでの一家の生活を、充実した平穏なものであった、と伝えている。彼は勤勉を信条とし、その腕と精神を磨くために、集中的だが度が過ぎない程度の練習と作曲を日課とした。気晴らしは主に庭いじりと散歩であった。また大の話し好きで、ウィーン訛りのドイツ語を巧みに操った。ヒラーによると、彼は極めて理路整然と話す人であったが、音楽の仕事以外の論議は、人をつまらなくさせるとして、嫌ったという。
●1826年にフンメルを訪ねたグリルパルツァーは、ワイマールの知識人たちの会話からは浮き上がった彼のウィーン訛りを面白がり、それはいまだかつて耳にしたことのない最悪のドイツ語に聞こえた、と言っている。フンメルはよく陽気に振る舞ったが、それは肥満した体型とよく似合っていたように思われる。レルシュタープによれば、フンメルは芸術家とはとても見えないブルジョワ然とした顔つきをしていたという(このあたりの印象は、ベートーヴェンのそれとは対極である)。しかし経済的な危機感を過剰なまでにつのらせて、この快活な表情はしばしば失われた。彼のそうした主張は、間違いなく事実に基づいていたときもあったが、ベートーヴェンやモーツァルトも困窮していた事実を知っていたがために、彼が過敏に時期になされたものであることを考えに入れなければならない。フンメルがすぐれた商才を持っていたことは疑いがない。普段からC.F.ピータース、トビーアス・ハスリンガーといった出版業者と良好な関係を保ち、彼らはフンメルのさまざまな国際的な契約の管理を助けたり、彼の多くの投資に助言を与えることもした。多くの国にまたがって出版することを可能にしたのも、ドイツ・オーストリアの両方に効力のある著作権法実現のために作曲家たちの先頭に立ったのも、さらに音楽出版界に蔓延する混乱の中で作曲家たちが有利に活動できるようにしたのもフンメルであった。常に成功という概念に敏感で、あるときには<Allegemeine musikalische Zeitung>紙の酷評に激怒し、同紙の不買同盟を組織すると脅した。そして経済的成功を現実に手中に収めた。彼の財産の評価のしかたはさまざまであるが、どのように計算しても莫大なもので、約10万ターレル(2万ポンド)、何百点という指輪、かぎタバコ入れ、その他の金や宝玉をちりばめた品々を残した。
●レジオン・ドヌール勲章、ワイマール白隼勲章を受け、フランス学士院、ソシエテ・デザンフォン・ダポロン、ジュネーヴ音楽協会、オランダ音楽振興協会、ウィーン楽友協会の会員であり、またロンドンのフィルハーモニー協会の最初期の名誉会員であった。