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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯

1.幼少期とモーツァルトとの生活

生涯の恩師、モーツァルトとの出会い、弟子入り。
絶頂期のモーツァルトの自宅に住込みでレッスンを受け、生活を見て、作曲する姿をみて、そして語り合いその精神を受け継ぐための初めてにして貴重で重要な2年間。

 ヨハン・ネポムク・フンメル(以下ヨハン)はウイーンから東へ80kmほどの距離に位置するハンガリーの都市:プレスブルク(現在のスロバキア共和国の首都:ブラチスラヴァ)で、1778年11月14日に生まれた。

 彼の父親はヨハネス・フンメルという音楽家で、ヨハンが生まれる4か月前に三歳年上の妻:マルガレーテと結婚したばかりであった。

 父ヨハネスは、実業家の父(ヨハンの祖父):カスパルにウイーン留学へ送り出され、音楽の勉学を始めた。その後ヨハネスは優れたヴァイオリニストとなり、さらに24歳の時には新劇場の音楽監督を務めるほどになった。

 ヨハネスは当時ヴァルトブルク(プレスブルクの隣町)で音楽監督の職を得ていたが、より良い職場と環境を目指そうと思い、ヨハンの誕生の1年後には、家族でプラハへ移動した。

 彼らはすぐに彼らの幼い息子が、音楽のための特別な才能を持っていたと感じていた。4歳の時にはヨハンがバイオリンを習い、その後少しずつピアノのレッスンを開始し、歌のレッスンも直接父親から学んだ。ヨハンの才能は驚異的であり、7歳にして様々な曲を弾きこなすピアニストになっていた。



 1786年に、父ヨハネスは、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウイーンで、後のモーツァルトの『魔笛』でコンビを組むことになるシカネーダーが管理するアウフ・デア・ヴィーデン劇場の仕事に音楽監督として参加する機会があった。

 ヨハンは神童と言えた。3歳のとき、その2倍の歳のほとんどの子供より高い能力を示したといわれる。その能力は、自分の教育レベルを超えており、ヨハンの才能をどうにかしたいと思っていた父ヨハネスは、このウイーンでの仕事をチャンスと捉え、家族と共にウイーンに移動した。そこはモーツァルトの天才が花開き、異常な熱狂に包まれていた時期であった。


 おそらくシカネーダーの紹介であると思われるが、ウイーンに来てすぐにモーツァルトとの知遇を得られることとなった。そして父ヨハネスは自分の息子ヨハンのの音楽的才能の事をモーツァルトに伝えたものと思われる。モーツァルトは「そんな子がいるなら是非見てみたいから、今度連れてきなさい」とヨハネスに伝えた。

 彼はすぐにヨハンを連れて、モーツァルトの住むアパートへ赴いた。


 当時はピアノ演奏にオペラの作曲にと多忙を極めていたモーツァルトであったが、ヨハンの演奏をじっくりと聞いた。ヨハンは7曲を披露したらしい。

 モーツァルトは、ヨハンの才能に驚き、感銘した。そして、ヨハネスは思いもしなかった言葉を聞くことになった。
「ヨハネス、君の息子の才能は大したものだ。もう少しで誰にも負けない演奏家になれる。それまでは僕が面倒をみるから。ああ、レッスン料はいらないよ。ヨハンには僕たちと一緒に生活してもらい、常に僕のそばに置いてほしいんだ。いいね?」

 モーツァルトとのレッスンは、単なるピアノの教師と生徒の範囲を大きく超えたものであった。


 モーツァルトは自作を弾いて聞かせ、そしてヨハンにも弾かせた。時には個人の集まりで連弾したり、演奏会の助手的なこともヨハンに経験させている。ヨハンは直にモーツァルトの演奏法をまなび、楽曲の理解、構成、形式の事、作曲の基礎、そしてモーツァルトの精神を浸透させていった。

 

 特にドン・ジョヴァンニの作曲準備の際には、多くの歌手のレッスンの伴奏に弾かせたりもしたらしい。こうなると弟子というよりは人手が足りないモーツァルトの都合の良い助手である。

 しかし、モーツァルトの家には多くの著名人が集い、多くの音楽家も集まったのはヨハンにとっては、変えることのできない体験であり、肥やしとなったことであろう。ディッタースドルフヴァンハル、そして後に大恩師となるハイドンの知遇を得たのも、彼らがモーツァルト家に出入りしていたからこそである。

 モーツァルトがボーリング(九柱戯)やビリヤードをしながら、音楽談義をしたり、音楽界の出来事、音楽批評をしていたらしく、ヨハンもそこに同席させていたらしい。そこから学ぶことも多い事をモーツァルトは教えたかったのである。

 そしてそんな間に次々と名作を生み出していくモーツァルトの全盛期を目の当たりにしていたのである。

 ヨハンにとっては無くてはならない、貴重な体験であったた。ここまでモーツァルトの精神を浸透させた人は、他にはいないのである。


 こうして慌ただしいモーツァルト家での生活が2年が経った。モーツァルトを取り巻く状況は一変しており、政治的不安も重なって、彼の財政的状況は逼迫していった。またモーツァルトの父:レオポルトが亡くなり、モーツァルトの息子の誕生など、混乱した状況に陥って行った時期、モーツァルトはヨハンの独り立ちを提案することとなる。

 1788年、モーツァルトはヨハネスとヨハンに成功を約束し、そして自分が経験した成功事例や失敗事例を教示しながら、ヨーロッパへの大演奏ツアーを提案したのだった。


 ヨハネスは、その指示・提案に従い、ヨハンを伴ってヨーロッパ旅行の計画を立てた。そして実行していくのである。この旅は4年に渡って続き、ウイーンに戻ってきたヨハンは著名人となっていたのである。

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