ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯
3.ウィーン帰還とベートーヴェン
ベートーヴェンとフンメルの良き親友の関係は、途中に何回も喧嘩で疎遠になった時期もあるが、ベートーヴェンの死まで続いたことは確かな事実であり、音楽史上の奇跡である。
フンメル家は、 1793年の春にウィーンで生活に戻って定住し始めた。ヨハンはアントニオ・サリエリやアルブレヒツベルガーに合唱、和声法、対位法など、作曲家として必要な知識、理論を学んだ。サリエリやアルブレヒツベルガーは、この時期一足早くウイーンに住んでいたベートーヴェンも教えており、フンメルと全く同じであり、この時期にお互いを知る機会を得たものと思われる。ハイドンはオルガンについての多くを教えたが、しかしハイドンはフンメルに「君はピアノ演奏家として素晴らしい才能に恵まれているんだ。それはオルガンの奏法とは全く別のもので、このままオルガン演奏に必要な訓練は、君のピアノ演奏に悪い影響を与えることがあるから控えなさい」と助言したのだった。
フンメルにとって作曲はますます重要な活動となっていったが、モーツァルトの死後、ピアノ演奏の文化が盛んになり、ピアノの巨匠の演奏を聴くことは、この時期のウイーンの大きなブームとなっていた。
ベートーヴェンとフンメルは、ウィーンのピアノ演奏家の最高の地位を争い、お互いが定期的に演奏会を開催した。また、お互いが相手の演奏会に出かけ、意見の交換や批評をやり取りしたのである。フンメルはまだ10代であったが、ベートーヴェンンはフンメルより8歳年上である。既にモーツァルトの未亡人の為の慈善演奏会や多くのブルジョア階級と付き合い、多くのパトロンを得ていたのだ。しかも就職という事に固執せず、芸術家の地位を高めようとしていた。
ベートーヴェンが弦楽四重奏を出版するとすぐにフンメルも出版する等、常に意識する関係となって行った。当時のウイーンでは演奏だけではなく、出版作品においてもこの二人が頂点となっていて、ピアノ三重奏曲等はもっとも人気の高い作品であった。作曲家としての評価はむしろフンメルの方が上だったともいえる時代である。こうした刺激し合う良きライヴァル、良き親友の関係は、途中に何回も喧嘩(殆どがベートーヴェン側からの一方的な絶交宣言)で疎遠になった時期もあるが、ベートーヴェンの死まで続いたことは確かな事実であり、音楽史上の奇跡である。
◆弦楽四重奏曲 第2番 ト長調 第1楽章(1804年)
(3つの弦楽四重奏曲集、Op.30より)
フンメルは早い段階でベートーヴェンの才能が巨大であることに気付いていた。そしてその才能に尊敬の念を抱いていたが、やがて自信喪失になっていった。ベートーヴェンの生み出す新作作品には、新しさと才能に溢れる、他の作曲家には見られない独自性があった。特に彼の交響曲は他の追随を許すものではなく、巨大な芸術として君臨した。 フンメルは後の弟子:フェルディナント・ヒラーに次のように語っていた。
「ベートーヴェンのような才能と同じ道を歩くべきなのかどうか自信が持てなかった。自分には何ができるか判らなかったのだ。時がたつにつれ、ある考えに至った。“ベートーヴェンを追う必要はない。私は私らしく、自分に忠実で素直にあり続ければ良いのだ”と。」(ヒラーの回想録より)。
自分らしく...
結局、フンメルは交響曲を一曲も書くことはなかった。
フンメルは1803年、ハイドンの推薦によって、若干24歳にしてシュトゥットガルト管弦楽団の楽長となった。しかし、この職は双方にとって満足のいくものではなかったため、わずか1年で契約を終了してしまった。ハイドンは今度は直ちに彼自身の雇い主であるニコラスエステルハージ伯爵に彼をコンサートマスターとして推薦した。
ウィーン宮廷劇場の監督からも仕事の誘いもあったりしたが、結局1804年4月1日にエステルハージ候の楽士長として契約書に署名した。これは事実上、楽長の地位であってハイドンは、職位こそ以前のまま楽長であったが、体力的な問題もあり、名誉職として在籍しているに過ぎない状態であった。
このウイーンから南に50kmほどの壮大な宮殿では、楽団の統制、整備、訓練、楽譜の整理、そして新作の発表と演奏会など、やるべきことは山積みであったが、ハイドンはこの宮廷での職務を全うできずにいたため、自分の代わりとなる優秀な音楽家を探していた。ハイドンのこれらの仕事に就いたのは、フンメルの他に、副学長のフックス、第二コンサートマスターのトマシーニらであった。