ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯
13.演奏および教育活動
●フンメルはヨーロッパで最も有名なピアニストの一人でありながら、彼の演奏歴は意外なほど短いといえるかもしれない。
演奏活動は、神童と呼ばれた少年時代、およびシュトゥットガルトに任用される以前の短い期間を除けば、1820年代から1830年代初期に集中している。彼の演奏は熱狂的な批評を引き起こし、そこに評者の誇張やおもねりがあるのは(特にフンメルの楽譜を発行している出版業者による雑誌である場合には)ごく普通のこととなっているが、それを差し引いてもなお、いつもいわれているのは、演奏が明快で、きちんとしていて、むらが無く、素晴らしい音を聴かせ、繊細さを持っているということ、そして楽々と弾きこなす技量、テンポをむやみに速くはしないでスピード感を出す能力、といったところである。
一方、ベートーヴェンの崇拝者などは、フンメルを温かみと情熱に欠けると非難した。しかしながらこの批判については、フンメルが軽快な響きのウィーン・ピアノを好んでいたことが斟酌されなければならず、このピアノの均質で透明な音色が彼の美意識と完全に一致したのである。ヒラーはフンメルの演奏にリストばりの情熱がないと批判するのは的外れであると戒めているが、それはフンメルが他人の作品を演奏することは稀で、また他人の演奏様式を習得すね気もなかったからである。フンメルが古典主義者で控えめな性格であるからといって、聴衆をわくわくさせるような面がなかった訳ではなく、あるとき、彼の二重トリルをよく見ようと聴衆が座席の上に立つ、ということもあった。
●フンメルの演奏会のプログラムは当時の慣習に沿ったものであって、自作の室内楽曲と協奏曲、そして即興演奏が中心になっており、それにオペラからの抜粋や、時にその土地の作曲家の作品を加えたものであった。室内楽の共演者や歌手たちは、当代きっての演奏家であった。しかし演奏旅行中に現地で調達するオーケストラの質はまちまちで、何度かは自作の協奏曲を骨組みだけの伴奏によって弾かなければならなかった。指揮者としてのフンメルの活動は1820年代に増え、彼が演奏家として他人の作品とかかわりを持ったのは、この分野であった。
彼の指揮についての現存するわずかな批評は極めて概括的で、冷たさに不満を表明するものもあれば、反対に情熱を賞賛するものがあるが、口をそろえて賞賛しているのは、正確さとオーケストラの中に確実さを植えつける能力である。
●フンメルの解釈についての論評はしばしば書き手の先入観が反映されているが、即興演奏についてはほとんど異口同音に賞賛が寄せられている。
フンメルは格式ある作品を演奏するより即興演奏の方が得意で、特に四声、五声のフーガ風変奏曲を作り出すことに優れていた。彼の典型的な即興演奏は、幻想曲風の序奏、有名なオペラから採られた、あるいはその晩の演奏会やパーティーにちなんで選ばれた主題、それに続く自由な変奏の数々を含み、さらに時に<ドン・ジョヴァンニ>といった有名オペラのフィナーレのパラフレーズで終わった。
シュポーアは自伝の中で、ウィーン会議のパーティーに続く即興演奏について記述しており、フンメルはその日の演奏会の主題を操って、対位法的変奏曲を幾つか、そしてフーガ1曲、さらにブラヴーラ的フィナーレをひねり出し、しかもこれらすべてを誰もが踊れるようにワルツのテンポで演奏したという。
●長年にわたって、フンメルはドイツ・オーストリアで最も重要な、そしてレッスン料の最も高額な教師の一人であった。その門下から次の世代の極めて優れた音楽家たちが輩出した。ヒラー、メンデルスゾーン、カール・エドゥアルト・ハルトクノホ、アドルフ・ヘンゼルト、カール・ゲオルク・マンゴルト、ジーギスモント・タールベルク、ジュゼッペ・ウニア、(ファランク)らである。
リストは高額なレッスン料のために諦め、ツェルニーについた。
シューマンも、結局はフンメルに就くことは無かったが、彼が時代に10年も後れていると思いながら、弟子であることが有利に作用するのではないかと感じて、しばらくはレッスンを受けようかと真剣に考えていた。
ヒラーによれば、フンメルの第一の関心は主旋律を歌わせること、適切で確実な運指法、明晰さにあった。教えるときには自分の作品しか使わなかったが、弟子たちはよく他の作曲家の作品を弾いた。普通はピアノしか教えなかったが、ヒラーは彼を作曲の教師としていっそう才能があったと見ている。
フンメルの教授法は、ピアノ教程《ピアノ演奏の理論と実践論評》に要約されている。三巻から成る同書は、1828年の出版と同時にたちまち数千部が売れたといわれているが、後期のウィーン奏法、特に装飾法についての最も重要な情報源である。同書には専門知識と衒学の奇妙な混合が見られ、運指練習、即興演奏、大小の半音など、さまざまな話題が含まれている。装飾音についての記述の幾つかは、当時の慣習というよりはフンメルの様式であると思われるが、そうであったとしても同書は当時の美意識を洞察する貴重な手がかりを与えてくれる。
同書の教育的な意図は、19世紀によく見られる営利目的の月並みな教則本をはるかに凌いでおり、それは、多くの教則本が指南書にとどまっているのに対して、フンメルは音楽家としての精神を強調し、バッハの作品を演奏することを究極の目標としているからである。