ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯
8.幸福なワイマール時代(2)
フンメルがワイマールの楽長に就任して以来レパートリーは変わり、モーツァルトをメインとして、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども取り上げられるようになっていった。
フンメルは、毎年の休暇を利用してヨーロッパ各地への演奏旅行を計画した。
1820年は、プラハからウイーンへの演奏旅行で、ここではフンメルの以前の作品(未出版で知られていない)作品を演奏した。
1821年に彼はベルリンへ行き、プロイセン王フリードリヒの前で御前演奏をしている。さらにこの都市では楽長を務めていたオペラ作曲家のスポンティーニと交流を持った。
1822年、フンメルは彼はロシアへの演奏旅行に出かけ、サンクトペテルブルグとモスクワ等を訪問した。ここではアイルランド出身でクレメンティの弟子でもあったピアノのヴァルトーゾ:ジョン・フィールドと交友を深め、連弾して楽しんだりした。フンメルはフィールドのノクターンに感化され、フィールドはフンメルの華やかな二重トリルやパッセージなどに影響されることとなった。 1823年には、イギリスへ渡り、ロンドン公演ロイヤルコートでのパフォーマンスで大熱狂の嵐となる。
ロンドンからの帰りはオランダ経由となったが、様々な主要都市で自分の作品の海賊版が出回っていることにショックを受け腹を立てた。これがきっかけでフンメルは著作権の確立を目指して活動していくことになった。
J.フィールドのノクターン集
ワイマールのような芸術や音楽に理解のあるところでも問題は起きていた。当時ワイマールの管理官だったカール・シュトロマイヤーには、多くの問題点を提出している。しかし一方で、フンメルは精力的に劇場監督として舞台作品を取り上げ、「くだらない」オペラに付き合う必要はなく、絶えず紛糾の種となっていたテンポの決定権も彼に与えられていた。フンメルによりレパートリーは変わり、モーツァルトをメインとして、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども取り上げられるようになっていった。フンメルは演奏旅行中に才能ある外国人歌手と出会って、雇い、そのことがこれらのオペラの上演にかなりの好結果をもたらした。
また、有名な音楽家の招聘にも尽力し、最新の音楽と演奏を聴くことができる環境をワイマールで整えていったのである。
1829年の世界的ヴァイオリニスト:ニコロ・パガニーニの招待がその代表例であるが、来訪音楽家の演奏会、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に当たった。
彼のオーケストラはそれほど大きくはなくても(弦楽器が各5、5、2、2、2に管楽器が各2の編成)、大きな技量を蓄えていくことができたのである。
ワイマールは、プロテスタントとカトリックの両方の教会・信者が存在したが、フンメルは新たに教会音楽を作曲することはなかった。ただ、エステルハージ時代の多くの教会音楽を出版している。
作曲活動としては、自らの演奏旅行のための作品に加えて、宮廷や自分が在籍したフリーメイソンロッヂの集会のためのカンタータ、出版業者からの
依頼によって様々な作曲家の序曲や交響曲、協奏曲の編曲、エディンバラのジョージ・トムソンのためのスコットランド民謡の編曲などを受注した。この辺りはベートーヴェンとは違い、フンメルはあくまでも職業作家であったと言えよう。
【打込音源紹介】■幻想曲「パガニーニの思い出」ハ長調,WoO.8(S.190)
【打込音源紹介】■グルック(フンメル編曲)/歌劇「トーリードのイフィジェニー」序曲
1820年代後半からは、大きな仕事に取り組むことで、自作の新作は激減していった。彼が時間と想像力を最も傾けたのはピアノ演奏法に関する著作の執筆であり、パリ・オペラ座からの作曲依頼を断るほどこの仕事に没頭していた。ただし、いずれにしてもその台本はフンメルの興味を引かないものであったようである。「ピアノ奏法の理論と実践詳論」は1828年に出版されるや否やヨーロッパ中でバイブルとして普及していった。
もう一つは、悪徳出版社や海賊版の徹底排除に関する運動で、これは結果的に音楽の著作権に関する史上初めての運動、ということになるであろう。フンメルは海賊版によって、どれだけ作家たちに入るべき収入が失われていったかを身に染みて知っていたのである。この件はベートーヴェンらとも書簡を通して対話していった。