ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯
6.ヴュルテンベルクでの苦難
フンメルを高く評価してくれたフリードリヒ1世は、フンメルが就任して1週間ほどで急逝してしまったのだ。跡を継いだのは息子のヴィルヘルムであったが、彼は音楽に対する造詣もなく興味もなかった。
演奏活動に復帰したフンメルであったが、どうしても気がかりなことがあった。それは一家の大黒柱として、妻子を養っていかなければならない事、その為には不安定な演奏活動だけでは心もとない、何とか安定した生活を維持したい、と思うようになった。これは元来の彼の性質であったのであろう。ベートーヴェンとの違いは音楽性だけではなかったのだ。そうしているうちに以前短期間だが従事した事があるシュツットガルトのヴュルテンベルク宮廷楽団の楽長の職を得ることができた。条件は管弦楽団の総監督等の他に、年に2か月間は無休であるが、フンメルが演奏旅行に出かけても良いという条件が付けられていた。一方でフンメルが望んでいた収入よりはだいぶ少ない提示ではあり、迷うところではあった。それでも1816年の10月に新作オペラを上演し、ピアニストとしても新作の協奏曲(有名なイ短調Op.85であろうと思われる)を披露して、その資質をプレゼンテーションしたのである。これを見た王フリードリヒ1世は大いに喜び、直ぐに彼を楽長に任命したのであった。
しかし、不幸にもこのフンメルを高く評価してくれたフリードリヒ1世は、フンメルが就任して1週間ほどで急逝してしまったのだ。跡を継いだのは息子のヴィルヘルムであったが、彼は音楽に対する造詣もなく興味もなかった。父の死に対し、シュツットガルト劇場の閉鎖を要求して、2か月の喪の期間を強要したのだ。またフンメルに対しても何の興味を見せず、11月にはフンメルの役職に劇場支配人のバロン・フォン・ヴェヒターを任命してしまった。フンメルに言わせれば、このヴェヒターという人物は、「ベルグ州裁判所へのデンマーク大使の息子で、横柄な貴族だった。何よりも音楽関しては全くの素人だった」という。
フンメルは、その才能と実績、その名声にもかかわらず、エステルハージ時代と同じ運命となってしまうのであった。
問題は、次々と現れた。フンメルはもともと自分の演奏旅行の際やオペラの上演でエリザベートを伴って、歌手として出演させる事を希望し、契約上も受け入れられていたはずだった。エリザベートは実際に何度かコンサートで歌ったのであるが、ヴェヒターは彼女に報酬を支払おうとしなかったのである。そこでもしもこのまま支払われないのであれば、彼女の出演は拒否させる事とした。これは明らかにフンメルを快く思っていなかったヴェヒターとその首謀者による政治的陰謀が絡んでいたと言われている。
こうした扱いにはもう耐えられないとして、フンメルは1818年9月に辞表を提出した。しかしヴィルヘルム王によって却下されてしまう。ここから大変な労力を得てひとつひとつ辞任できる理由を提出、簡易的な裁判にまで及んだのである。こうした苦労を得てやっと6週間後に辞表が受理されることとなった。
一方、シュトゥットガルトの聴衆は、彼の音楽的功績や才能を失うことを悔やんだ。後の時代になってもその後のフンメルの活躍を見ては、悔やみ続けたという。こうした民意と政治の不一致は、昔から存在していたのである。