top of page

ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯

11.最後の10年と死

ショパンとの出会い、最後の演奏旅行、演奏会の不入り、そして病気。。。
フンメルの最後の数年の様子と遺品について。

 1828年に大公カール・アウグストが無くなってからは、実質上は新大公としてカール・フリードリッヒが統治していたが、フンメルの崇拝者でピアノも学んでいたフリードリヒの妻マリヤ・パヴロヴナ公妃が、フンメルへの多くの支援を強化されることとなった。フンメルとは何かと馬が合わなかった管理官のシュトロマイヤーが引退を余儀なくされ、先代の愛人的存在でワイマールで長期滞在していたソプラノキャロライン・ヤーゲマンも権力を失っていった。こうした状況かになってもまだフンメルは音楽家たちの生活改善、環境の整備についての提案と要求をし続けていた。

 また、1828年という年は歴史的な出会いもあった。この年の演奏旅行は比較的短期間であったが、ベルリンからワルシャワ方面へ向けてのみのであった。このワルシャワで若い才能豊かな青年・ショパンと出会っているのだ。

 ショパンは、自分を評価してくれている地元の人たちの意見と今の自分の音楽が本当に現代の多くの人たちに受け入れられるのかどうかと悩んでもいる時期であった。そしてフンメルの演奏を聴いて確信できた。自分は正しい、と。

 フンメルはこの青年の才能を高く評価し、「今のまま自分を信じて続けなさい」と言った。ショパンのその後のピアノ協奏曲にはフンメルの影響が大いに認められる。フンメルとショパンは後年ウイーンでも再会しているが、この時はフレンドリーなフンメルの態度を友人に綴っている。

「フンメルじいさんはとても人懐っこい良い人です」

 

 

 1829年は演奏旅行は行わず、家族でカールスバートのスパで休暇を取って、イギリスへの彼の訪問の翌年に向けた準備をはじめた。イギリスでは1822年を初めてとして何度もフンメルを招待していた。フィルハーモニック協会の会員の間で、フンメルは巨匠としての評価が高く、知名度は高かったのだ。またこの年も招待状が届いていた。1829年に年次休暇を取らなかったことから、1830年には休暇は6ヶ月となったため、パリと約40年ぶりのロンドンに演奏旅行を行ったのである。

 

 フンメルはロンドンに行く前にパリに寄って2回ほどコンサートを開催したが大変な成功を収めた。ロンドンでは、公演に先駆けて、同郷の友人たちでもあるモシェレスやカルクブレンナーが事前告知を大々的に行ったため、歓迎ムードに包まれた。様々なゲストが参加したフンメルのコンサートは評論家を唸らせた。また、当時の有名ソプラノ歌手:マリア・マリブランからの依頼を受けて作曲した、ソプラノとオーケストラの為のチロリアンのテーマによる大変奏曲(Op.118)を初演し、大喝采となった。

 フンメルはロンドンに3カ月滞在したが、その間女王のために演奏したり、モシェレスの収益のためにゲスト出演したりと駆け回った。

 

■「チロリアンのテーマによる変奏曲」Op.118

 

 

 今回の演奏旅行がフンメルのピークであった。以後は陰りが見え始める。その後の31年、33年のロンドン滞在では名声はすでに下降線をたどり始めていた。その時はパフォーマンス的にも人気絶頂にあったパガニーニと滞在が重なったこともあるが、既にリストや弟子のタールベルク等の若い世代のピアニストが「ショーマン」的にも成功を納めていたのである。またフンメルの技術が衰えたという指摘もあったり、楽曲が古典的であるため、古臭い古典派の音楽家(リスト談)、という印象が強くなっていったようである。

 それでも1833年のロンドンへの訪問は、ドイツのオペラ楽団の指揮者としての訪英となった。ここでは懇意にしてくれていたイギリス国王夫妻の為の記念演奏会でモーツァルトやウエーバーのオペラを指揮した。お礼としてウインザー城にも招待された。

 自分の演奏会は計画していたよりも人が入らないため、多くがキャンセルされてしまった。それでも1回のコンサートとフィルハーモニック協会のために、クラーマーと共にゲスト出演し、新作のピアノ協奏曲(Op.posth.1)を披露したりもした。しかし、モーツァルトの幻想曲を連弾でひく際には、調子が悪くなり、途中で止めてしまうという悲しいハプニングもあった。

 

■最後の出版作品となった楽曲

ピアノとオーケストラの為のロンド「ロンドンからの帰還」,Op.127

 この1833年のツアーが演奏家としての最後のものとなった。しかし、フンメルがワイマールでの職位があり、収入が減るということはなかった。しかし健康はだんだんと蝕まれていって、1834年以降は殆ど療養生活にはいっている。調子のいい時は庭いじりしたり、ピアノを弾いたり、訪問者への記念帳にサインしたり、という生活だった。ただし必要なワイマールでの職務は続けていた。

 1837年3月、ピアニストとなっていた長男のエドヴァルトが父のピアノ協奏曲を弾いたコンサートに参加した。これがフンメルの最後の演奏会となった。

 フンメルの健康は夏に入るとさらに悪化していき、寝たきりになってしまう。そして家族に看取られながら1837年10月17日に亡くなった。

 彼の死の三日後に葬儀が執り行われたが、そこではフンメルのカンタータが演奏され、追悼式典ではモーツァルトのレクイエムが演奏された。彼の死のニュースはヨーロッパ中を巡ったが、ベートーヴェンの死と比べると静かなものだった。

 

 これは古典派音楽の終わりを告げるものであった。

 ワイマールはフンメルの功績をたたえ、遺族に多額の年金を保証した。またフンメルは家族に膨大な財産を残した。これは師匠のモーツァルトの生活を知る人の反面教師であったのだろうか? その性格とともに質素な生活を好んで無駄遣いせず、計画的な資産管理を行ったためである。おかげで未亡人となった妻:エリザベートは何不自由することなく、夫との楽しかった過去を思い出しながら、フンメルの死後45年も長生きした。

 

 フンメルの死後、彼の音楽は急速に忘れられていった。19世紀後半、ロマン主義と新しい音楽の波に追いやられ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンという偉大過ぎる巨匠の陰に埋もれていったのである。  しかし、近年のフンメルの再評価は、様々な発見をもたらすようになった。彼の残した音楽の大半を聴くことができるようになった我々は、貴重な時代を生きているといえよう。

bottom of page