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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯

7.幸福なワイマール時代(1)

ワイマールでのフンメルの契約は理想的なものであった。エステールハージ時代やシュトゥットガルト時代とは大きく異なり、かなりの報酬と自由を与えられたもので、彼の演奏旅行も自由にとれる環境となった。

 フンメルは1817年の年末、1756年以来、ワイマールで楽長してきたバッハの名づけ子でもあるのミュラーが亡くなって以来、同職は空席のままとなっていた事を知った。当時のワイマール公国は、芸術的分野の保護・推進に手厚く、評判が高かった。かのヨハン・セバスチャン・バッハも18世紀の前半にはここで活躍していた。そして、エルンスト・アウグスト2世がこの宮廷を納めていた。

 夫の死後、公爵夫人アンナ・アマーリア(エルンストの未亡人)が彼女の幼い息子カール・アウグストに代わって統治をするようになる。アンナは、作家で哲学者のクリストフ・マルティン・ヴィーラントの『黄金の鏡』を気に入り、1772年に2人の息子の教育係としてヴィーラントを招いた。教育係としての役職は1775年まで続いたが、それ以降も彼はヴァイマルの宮廷に仕えることになった。そうした教育のおかげで息子カールも教育・文化・芸術の発展に熱心に取り組んだのである。

 カールの統治が始まって最初に行った事の一つに、二年前から面識があり、非常に尊敬していたヨハン・ヴォルフガング・ゲーテを、ワイマール公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・務長官つまり宰相も勤めた)に任命したことだ。

 

 1775年にゲーテがワイマールに来て以来、シラー(1787年にはワイマールに定住)やヘルダーといった、後の世にも名を残すことになるドイツ文学の巨人がワイマールを訪れるようになり、ドイツ古典主義文学の牙城になり一大黄金期を迎えたのである。 

 そしてカールの長男カール・フリードリヒはサンクトペテルブルクでロシア皇帝パーヴェル1世の娘マリヤ・パヴロヴナと結婚した。彼女は音楽を愛しており、音楽の分野でも著名な音楽家を集めたり劇場が充実していくなど、さらに文化芸術都市の発展に貢献したのである。

 フンメルが赴任してくるのは、この時代である。知名度、実績、作曲家・演奏家としての能力、そしてモーツァルトの直弟子で後継者....。1819年の初頭、フンメルにとっては成るべくしてなったワイマール宮廷の音楽監督である。ここでの契約はフンメルにとってもエステールハージ時代やシュトゥットガルト時代とは大きく異なり、かなりの報酬と自由を与えられたもので、彼の演奏旅行も自由にとれる環境となった。もちろんここで彼がしなければならない事は、演奏会、行事の運営、書類の整理、文化人、音楽家の招聘と接待、作曲、ゲーテとの交流等、盛りだくさんであったが、彼は大きな庭付きの家を与えられ、快適な家庭生活を満喫できる環境も与えられた。彼は生産的な音楽活動と、家族を守こと、という大きな希望を叶えることができたのであった。

 

 音楽愛好家の皇妃マリヤ・パヴロヴナは真っ先にフンメルに弟子入りしピアノを習った。その後、ゲーテと共にフンメルを訪れる音楽家が増えていくようになる。ツェルターやその弟子のメンデルスゾーン姉弟は、何度も訪れている。弟子入りしてきた本格的な音楽家は、ルイーズ・ファランク、フェルディナント・ヒラー、アドルフ・フォン・ヘンゼルトらがいた。シューマンなどもフンメルに師事するか悩んだらしい。

 

*余談*ウイーン時代にも多くの弟子を育てているが、モーツァルトの末子フランツ・クサーヴァーは未亡人コンスタンツェ(幼少期の第二の母でもある)に押し込まれたみのであったが、面白いエピソードとしては、エステルハージ時代に同僚であったアダム・リストが才能ある息子を連れてきたが、あまりにフンメルのレッスン料が高くてあきらめたという。結局フランツ・リストはカール・ツェルニーの門をたたくことになった。しかし、リストは自分の演奏会などでフンメルのピアノ曲、協奏曲を何度も取り上げている。特にイ短調Op.85とロ短調Op.89は、リストのテクニックを存分に見せつけられる主要なレパートリーとなっていた。リストのウィーン、パリ、ロンドンでのデビューコンサートはすべてロ短調Op.89であったという。リストは後年になってもモーツァルト、ベートーヴェン、フンメル、ツェルニー等の曲を弟子たちに学ばせていたという。

 

 彼の主な職務は宮廷劇場で指揮することであったが、ここでも契約は有利なものであって「くだらない」オペラに付き合う必要はなく、絶えず紛糾の種となっていたテンポの決定権も彼に与えられた。レパートリーは変わり、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども含まれるようになった。フンメルは演奏旅行中に才能ある外国人歌手と出会って、雇い、そのことがこれらのオペラの上演にかなりの好結果をもたらした。1821年には自身の『ギース家のマティルデ』Op.100を改作して演奏している記録がある。

 歌劇『ギース家のマティルダ』Op.100より 序曲および二重唱

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