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ヨハン・ネポムク・フンメルの作品

1.作風と評価

●作曲家としてフンメルは時代の境目に位置している。彼の名声は今日、19世紀の特徴である、ピアノのヴィルトゥオーソ的作曲家(名人芸的演奏家)、サロン音楽作曲家、といったものが多い。しかしながら、彼についてのこうした見方は甚だしい誤りである。よく知られた作品(幾つかのピアノ協奏曲、ピアノ曲、ピアノを含む室内楽曲。録音の多さではトランペット協奏曲)だけではなく、ほとんど知られていない未出版の作品と大量の印刷作品を見渡してみると、彼の仕事が世紀の変わり目に一般的であったほぼすべてのジャンルと演奏手段に及んでいることが明らかになる。すなわち、オペラ、ジングシュピール、管弦楽ミサ曲、その他の宗教音楽、機会音楽(セレナードや舞曲など)、室内楽曲、歌曲(リートやコンサートアリアなど)、そしてもちろん協奏曲、ピアノ独奏曲、数多くの編曲作品である。交響曲が欠けていることが目立つが、この事実は、ベートーヴェンに対する対抗意識を彼が強く持っていたことを示す唯一のものである。さらにフンメルには、古い職人型の作曲家と新しい企業家型の作曲家が奇妙な形で混在していた。膨大な量の音楽を職務の一部として作曲する一方、フリーの音楽家としても仕事をし、仕事の依頼が途絶えることはほとんどなく、出版業者の要求をすべて満足させることができなかった。音楽市場の需要にこたえる彼の非凡な才覚は、エディンバラの民謡収集家ジョージ・トムソンとの関係にはっきりと見てとれる。これらの民謡の編曲は、ハイドンやベートーヴェンにも依頼があり、実際に行っているが、ベートーヴェンがトムソンのために行った編曲は難しすぎて売れ行きが悪かったが、フンメルのものは好評であった。しかし、フンメルも、ベートーヴェンと同様に高度な技巧を当たり前に要求する作曲家であった。

 

●様式的にはフンメルの音楽は古典派末期の最良のものである。基本的にホモフォニックなテクスチャを有し、装飾の多いイタリア的な旋律が繰り広げられて、装いを新たにしたアルベルティ・バスに支えられたヴィルトゥオーソ的な華麗さを特徴としている。ピアノを用いた作品で最も斬新な傾向を見せる彼の様式は、1814年の演奏活動再開後に作品の表現範囲が和声と旋律の多様さおよび華麗さという点でかなり拡張されたとはいえ、生涯を通じて変わることはなかった。しかしこうした原ロマン派的な要素があるにもかかわらず、この新しい様式は、本質的にはなお明らかに古典派のものであって、情調が大きな部分に一貫していることが、若い世代の求めた感情の対立と全く趣を異にしている。各フレーズや各セクションの移り変わりをはっきりさせることはなお第一に重要なことであって、また全体的に見られる比較的ゆっくりとした和声リズムは、聴き手が和声の目まぐるしい変化に押し流されてしまうのを防いだが、若いロマン主義者たちはしばしばこの目まぐるしい和声変化を身上としていたように思われる。彼の自筆譜には数字付の低音を示すような書込みが見られるが、これはフンメルが、音楽とは和声進行を肉付けするものだと考えていたことを示唆している。この一見古めかしい作曲法は、想像力豊かな新しい和音の使い方を排除しなかった。彼は特に14年以降に、3度関係、2次ドミナント、3次ドミナント、半音階的経過音を好んで用いた。その好例はピアノ三重奏曲Op.83とソナタOp.81に見られる。

 

●和声を中心に音楽を考える傾向にあったにもかかわらず、フンメルは旋律書法にもすぐれ、特に円熟期の作品では、旋律線は次に何が来るか予測しにくくなり、またシンメトリーでもなくなった。見事な装飾法と変化に富んだ新しい和声法から生まれた長いフレーズは、ベートーヴェンを除けば、この時代の最高の水準にある。こうした旋律は、伴奏に徹したテクスチュアによって支えられ、そしてこの伴奏が自在にありうるのではなく常に旋律の下に置かれているために彼の音楽は、ピアニストの体験から生み出された「右利きの」音楽である、とよくいわれる。しかし実際には、彼の音楽全般に影響を及ぼしている、ウィーン製のピアノが持つ澄んだ音によって、音符で埋まったページが作り出す効果は繊細で透明なものとなり、ヴィルトゥオーソ的な部分においてさえ、かなり対位法が用いられている。この対位法には2つのタイプがあって、一つは完全に装飾的なもので(例えば後期の作品によく見られる、さまざまなレベルでの旋律の細かい装飾で、これはシューマンのピアノ技法のなかでも重要な部分を占めるようになっていく)、いま一つは構造そのものによりかかわっているものである(展開部が行き詰まったときに不可避的に登場するフガートなど)。

 

●同世代の多くの作曲家と同様に、フンメルの弱点は、大規模な音楽単位をどう構成していくか、ということにあった。このため、彼の変奏曲は楽想に乏しい場合であっても、しばしば大規模作品としては最も成功したものとなっている。彼が好んだ2つの大規模形式である「ソナタ・アレグロ」楽章とロンドの構造は、旋律とテクスチュアの寄せ集めといった印象が否めない。この点で、様式と全体の成り立ちは異なるが、ドメニコ・スカルラッティの手法とよく似ている。フンメルの楽想の魅力は、自由に展開される豊かな旋律という点にあるが、まさにこの旋律を書く才能が災いした。ベートーヴェンの楽想が、その可能性を次第に現しながら大規模な構図へと有機的に発展していくのに対して、フンメルの自己完結的で長大な楽想は、真の展開の可能性に乏しく、その冗漫さゆえに過度に長い楽章を生み出しがちである。これは特に室内楽曲にいえることで、陶酔ぎみのフンメルが各奏者に長い旋律を割り当てることによって、全体の形態はさらに損なわれる。彼はこの弱点を歌曲風のパッセージとヴィルトゥオーソ的パッセージを対比させることで克服しようと努めたが、常に最上声部が優位を占めるために多くは失敗に終わっている。しかし彼は、声楽におけるロッシー二の業績に匹敵するような、ある種のリリシズムと華麗さを獲得した。

 

●欠点はあるとしても、フンメルは卓越した職人技によってヨーロッパの主流に位置する重要な作曲家の一人となった。モーツァルトに師事したこと、そして存命中でさえ古典的であるといわれた様式が彼をウィーン古典派の古株にした。しかし、古典派が時代後れと見なされるようになると、評価は急速に下降し始めた。突然、彼は時代錯誤となったのである。彼の超絶技巧は物見高い新しい聴衆層を作り出すことにつながり、彼らは、昔の教養ある音楽愛好家から成る聴衆と比べるとはるかに、よりいっそう華々しい技巧による刺激を求め続けた。教師としてもフンメルは過去の人となった。チェルニーの単純な練習曲のほうがフンメルの対位法よりはるかに受け入れやすかったし、また正確なテンポを教えるためにチェル二一はメトロノームを使用したが、これは、「音楽性」という実体のないものを重視するフンメルの主張よりもなじみやすいものであった。晩年の創作力の衰退は、リストが考えたように、ワイマ一ルでの心地よい生活に原因があったのではなく、自分の時代が終わったと彼が認めたためかもしれない。

 

●フンメルの音楽は、至高の才能に恵まれなかった人としては、最高水準に到達している。彼の作品は不朽のものではないが、それらは、そして彼の演奏様式は、長い間重視された。彼は、おそらく後期古典派の最良の作曲家であり、存命中は同派の最も有名な代表者的人物であって、クレメンティとモーツァルトの様式を、ベートーヴェンを経由せずにシューベルト、メンデルスゾーン、ショパン、初期のリスト、シューマンらに伝えた。しかし、彼らのなかには、自己の形成期にフンメルに多くを負いながらも、反感を示す者がいた。彼の本質的な保守主義は、ウィーン古典派に高度の完成と衰退をもたらした。というのは18世紀の遺産の補完に終始することで、次代の激しい反発を招いたからである。しかしフンメルの本当の重要性は、彼についてきた人々の名声によってではなく、その生きた時代を真に代表する者としての彼の位置によって決められる。明快、均整、優美、「教養」といったかつての美徳が、「霊感」、主感主義、商業主義、大言壮語といった新しい風潮に道を譲るにつれて、古典派様式がその有効性を失っていく決定的な段階は、ベートーヴェンではなく、フンメルに見ることができるかもしれない。

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