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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯

9.幸福なワイマール時代(3)

フンメルのワイマールでの活動は、劇場の監督のほかに、年ごとの年金募金演奏会、祝賀会、公爵家の人々やゲーテなどの地元の名士敬意を表した特別演奏会、来訪音楽家の演奏会、さらに内輪のパーティーなどと活躍して町中から愛される存在であった。

 フンメルは執筆活動も行い、「モーツァルト回想録」、「自伝」、「ピアノ奏法の理論と実践詳論」等を執筆したが、そうした活動と絶え間のない弟子へのレッスン等に非常に多くの時間を取られるようになり、徐々に自作の作品の創造は減っていくことになる。

 もう一つは先にも触れた音楽家の著作権の保護の運動である。ベートーヴェンも頭を悩ましていた問題であるが、海賊版は作家に一銭の収入ももたらさない。それを撲滅するための運動であった。こうした活動を行った重要な音楽家としては史上初となる。

 

 こうした公務、執筆、著作権の活動があり、1824年は演奏旅行には出かけず、ワイマールに留まった。この年翌年のツアーの為の計画を練っていたフンメルは、長年の経験と知恵を絞り、行く都市に先行して大々的な宣伝活動を行うように広報活動をすることとしました。この役目にフンメルの崇拝者であるパリ音楽院監督だったケルビーニが買って出た。

 この年のパリでの演奏会は大きな賞賛を生み、コンサートのチケットの争奪戦は記録的なものだった。こうした功績から、翌1826年には現在でもフランスの最も名誉ある賞とされる『レジオンドヌール勲章』の対象者として、若いリストと争われました。聴衆はフンメルに充分な資格があるという意見が多かったため、受賞となった。

 こうした演奏旅行で得た実績と名声は各国で賞賛され、彼の肩書には、ワイマール白隼勲章、フランス学士院、ソシエテ・デザンフォン・ダポロン、ジュネーヴ音楽協会、オランダ音楽振興協会、ウィーン楽友協会の会員、という文字が並ぶ。またロンドンのフィルハーモニー協会の最初期の名誉会員にもなっている。

 ワイマールでも様々な交流を行っている。ゲーテとは定期的に会い、ゲーテの家に呼ばれることも多かった。彼の家で私的な演奏会もしばしば行われており、フンメルは、ゲーテとの交流の中で多くの未出版作品(プライベート楽曲)をゲーテに聞かせ、また献呈している。

 それらの多くはカンタータで、代表的なものとしては、下記があげられる。

 

S.158 ◇ゲーテの誕生日用合唱曲「今日、気高き仲間に」 1822

 

S.173 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「陽気な日は」 1827

 

S.177 ◇ゲーテの誕生日用歌曲 変ロ長調 1829 歌詞欠

 

S.180 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「私たちは陽気に登る」 1829 *消失 

 

S.187 ◇ゲーテの在ワイマール50年祭用独唱曲「歌声をあげよ」 1825*消失

 

S.195 ◇ゲーテの誕生日用歌曲「夢は快く甘かった」 1831 *未完

 1825年、旅に出なかった年、ワイマールに友人でもあるモシェレスを呼び寄せて、演奏会を企画した。その後、フンメルはわざわざ訪問してくれたモシェレスのために壮大な晩餐会を主催し、大公妃の前で二人で連弾も披露した。
 

 こうして、フンメルのワイマールでの活動は、劇場の監督のほかに、年ごとの年金募金演奏会、祝賀会、公爵家の人々やゲーテなどの地元の名士敬意を表した特別演奏会、来訪音楽家の演奏会(1829年のパガニーニがその例の代表で、招聘・準備、演奏会運営までこなしたことは前回述べた)、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に演奏に、と活躍して町中から愛される存在であった。

 

 ゲーテと共にワイマールを訪れる人々の「目的そのもの」となっていった。

 

「ゲーテと会い、フンメルの演奏を聴かずには、この町の訪問は完全なものにならない」

 

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