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2.ベートーヴェンとの深い親交:『エリーゼのために』の献呈者論争

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この話題は私も以前に「「エリーゼのために」本当は「エリザベートのために」?」 というブログ記事で紹介しました。ブログ内リンク先が切れていたため元記事の方のリンクを下記に貼ります。

ウィーン時代の交流とベートーヴェンの「ライン気質」

エリザベート・レッケルの生涯において、後世の音楽史家たちの関心を最も惹きつけてやまないのが、巨匠ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンとの極めて私的で深い親交です。兄ヨーゼフが『フィデリオ』への出演を通じてベートーヴェンと親しい友人関係(ベートーヴェンは多忙な時であってもヨーゼフの訪問は常に歓迎したとされる)にあったことから、妹のエリザベートもまた自然な流れでベートーヴェンのごく親しい内輪のサークルに迎え入れられました

複数の史料や同時代人の証言が一致して示すところによれば、ベートーヴェンは若く魅力的なエリザベートに対して極めて強い恋愛感情を抱いており、一時は彼女との結婚すら真剣に考えていたという説もあります。晩年のエリザベート自身が、1865年頃にベートーヴェンの伝記作家ルートヴィヒ・ノール(Ludwig Nohl)に対して回想したエピソードによれば、フンメルや著名なギター演奏の巨匠、マウロ・ジュリアーニ(1781–1829)と共に食事をした際、ベートーヴェンはその「ライン川地方特有の気質(Rhenish temperament)」を全開にし、彼女に対して非常に親愛の情に満ちた、愛情あふれる振る舞いを見せたという。この証言は、聴覚障害に苦しみ、気難しく孤高の天才という後世のステレオタイプ化されたベートーヴェン像とは異なる、社交的で人間味にあふれる彼の別の側面を浮き彫りにしていますが、現在では恋多きベートーヴェン像を否定する人はいないでしょう。

『エリーゼのために』を巡る3人の候補者

ベートーヴェンが1810年に作曲し、彼の死後40年が経過した1867年にルートヴィヒ・ノールによってミュンヘンで発見・出版されたイ短調のバガテル第25番(WoO 59)、通称『エリーゼのために(Für Elise)』の献呈者が一体誰であるのかという問題は、音楽史における最も魅惑的で、かつ解決の困難な謎の一つとされてきました。自筆譜の原図は現在では散逸しており、ノールの手による写しのみが残されているため、ベートーヴェンの悪筆による誤読の可能性を含め、長年にわたり激しい論争が展開されてきました

以下の表は、歴史的に「エリーゼ」の候補として挙げられてきた主要な3名の人物とその根拠、および反証をまとめたものです

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クラウス・マルティン・コピッツによる「レッケル=エリーゼ」仮説の構築

2009年から2010年にかけて、ドイツの音楽学者クラウス・マルティン・コピッツ(Klaus Martin Kopitz)は、この「エリーゼ」こそが他ならぬエリザベート・レッケルであるという画期的な仮説を発表し、学界のみならず一般のメディア(『Der Spiegel』誌など)をも巻き込む大きな反響を呼びました。コピッツは自説を裏付けるため、以下の4つの厳密な基準と多角的な証拠を提示しています。

第一に、名前の同一性に関する当時の社会的慣習である。19世紀初頭、三月前期(Vormärz)のウィーンにおいて、「エリザベート(Elisabeth)」と「エリーゼ(Elise)」という名称は実質的に同一のものと見なされ、日常的に互換して使用されていた。その証拠として、友人であるアンナ・ミルダー=ハオプトマンからの手紙の中で、エリザベートは明確に「エリーゼ」と呼ばれている。さらにコピッツは、決定的な公的文書として、1814年の長男エドゥアルトの洗礼記録において、母親の欄に「Maria Eva Elise」と記されている事実を発見した

第二に、献呈の文言に示された親密さの度合いである。自筆譜には「Für Elise am 27 April zur Erinnerung von L. v. Bthvn(4月27日、エリーゼのために、L. v. Bthvnより記念として)」と記されていた。姓を省略してファーストネーム(あるいは愛称)のみを記すという行為は、当時の社会的規範に照らし合わせれば、両者が極めて親密な間柄(ファーストネームで呼び合う仲)でなければ絶対にあり得ないものであった

第三に、交友のタイムラインの整合性である。この楽曲の初期スケッチは1808年の春にまで遡ることが判明している。つまり、「エリーゼ」は遅くとも1808年の時点ですでにベートーヴェンのサークルにいなければならない。当時、ベートーヴェンのヨゼフィーネ・フォン・ダイム(Josephine von Deym)への熱烈なアプローチは1807年の秋に彼女の家族からの圧力によって終わりを告げており、有力候補であるテレーゼ・マルファッティと出会うのは1809年末から1810年初頭にかけてのことである。したがって、1808年の時点から継続してベートーヴェンと親密な関係にあった女性は、エリザベート・レッケルただ一人に絞られるとコピッツは論じた。

第四に、作曲と献呈の直接的な動機である。自筆譜が清書された1810年4月27日という日付は、奇しくもエリザベートがバンベルクの劇場への赴任のためにウィーンを離れた時期と完全に一致している。コピッツは、この曲がウィーンを去るエリザベートへの「別れの記念(memento)」として急遽まとめ上げられ、贈られたものであると推論した。さらに音楽的な分析として、楽曲の有名な主要モチーフが「E-L-I-S-E」の文字から意図的に派生していると指摘した。ベートーヴェンはE(ミ)とA(ラ:Lの代用)、そしてS(ドイツ語音名のEs=D#:レ#)を用いることで、彼女の名前を音符の中に暗号として織り込んだというのである

このコピッツの仮説は、単に一人の女性を特定しただけでなく、ベートーヴェンの失われた恋愛のタイムラインを埋め合わせる極めて説得力のある理論として、一時期は「古くからの謎がついに解決された」として広く受け入れられたようです。バリー・クーパー(Barry Cooper)らによる「エリーゼはテレーゼを隠すための暗号・ペットネームであった」とする反論に対しても、コピッツは「ベートーヴェンがテレーゼをエリーゼと呼んだ証拠は一切なく、現存する手紙では常に『親愛なるテレーゼ』と書いている」として一蹴しています

ミヒャエル・ローレンツによる史料批判と理論の解体

フンメルの未亡人が、1860年頃にワイマールでイグナツ・フリッシュによって撮影された写真に写っている。「ベティ・レッケル=フンメル」という意味深な書き込みに注目

しかし、コピッツの構築した魅力的な物語は、2011年にオーストリアの著名な音楽学者ミヒャエル・ローレンツ(Michael Lorenz)が学術誌『Bonner Beethoven-Studien』に発表した論文「『正体を暴かれたエリーゼ』:ベートーヴェンの『エリーゼ』としてのエリザベート・レッケルの短いキャリア」によって、その根底から徹底的に解体されることとなりました。ローレンツは、コピッツが調査を見落としていた多数の一次史料(公文書、教区記録、徴兵記録など)を厳密に精査し、コピッツの仮説が「脆弱な証拠に基づく曲解」であることを以下の通り実証しました

まず、コピッツの最大の根拠であった1814年のフンメルの長男エドゥアルトの洗礼記録における「Maria Eva Elise」という記載についてである。ローレンツは当時の医学的・社会的慣習を指摘した。当時、産褥期の女性は出産後9日間はベッドから出ることを厳格に禁じられており、エリザベート自身は5月9日の洗礼式には参加していなかった。したがって、名簿における「Elise」という記載は、母親自身の申告ではなく、立会人からの不正確な情報に基づく officiating priest(執行司祭)の恣意的な決定によるものであったとしています

さらに致命的なことに、ローレンツはその後作成された洗礼記録の写しを発見し、そこでは母親の名前がすでに「Maria Eva Elisabeth」と正確に訂正されていることを明らかにしています。コピッツはこの訂正された写しを一度も確認していなかったと指摘しています。

次に、自己認識に関する問題である。ローレンツの広範な文書調査によれば、エリザベートが公的な書類や私的な手紙において、自身のことを「エリーゼ」と署名・自称した文書は、全生涯を通じてただの一つも存在せず、彼女は常に「Betty(ベッティ)」または「Maria Eva Hummel」という署名を使用しており、1860年にヴァイマルで撮影された写真の裏にも「Betty Roeckel-Hummel」と記されているとしています

事実として、「エリーゼ」あるいは「エリザベート」という名称を日常的に使用していたのは、彼女の母親や妹のEva Elisabethの方であったことがウィーンの徴兵記録等から確認されているとのこと。

さらに、自筆譜の来歴(Provenance)に関する論理的な矛盾である。ルートヴィヒ・ノールがミュンヘンで発見した自筆譜は、バベッテ・ブレドル(Babette Bredl)という女性が所持していた。ローレンツの系譜調査によれば、ブレドルはヨーゼフ・ルドルフ・シャハナー(Josef Rudolf Schachner)という作曲家の母親であり、シャハナーはテレーゼ・フォン・ドロスディク(結婚後のテレーゼ・マルファッティ)から遺産の一部として音楽原稿を相続した人物であった。つまり、自筆譜の伝来経路は「マルファッティ → シャハナー → ブレドル → ノール」という明確な線で繋がっており、フンメル家がこの原稿を所持していたことを示す痕跡は一切存在しなかったと指摘しています。

最後に、心理的・論理的な不整合である。後述するように、エリザベートはベートーヴェンの死の床から持ち帰った遺髪や最後のペンを、自身の死に至るまで半世紀以上にわたって極めて厳重に保管し、深い敬愛の念を抱き続けていたという証言や記録があります。ローレンツは、これほどまでにベートーヴェンとの絆を大切にした女性が、もし自分自身のために特別に作曲・献呈された自筆譜を持っていたとして、それを無関係な他人に易々と譲り渡してしまうことなど論理的にあり得ないと喝破しています

ローレンツはオッカムの剃刀(Occam's razor:ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきではないという原則)に基づき、ベートーヴェン自身は単に「4月27日の記念に、L. v. Bthvnより」とだけ自筆譜に記し、「エリーゼのために」という文言は、後に原稿を所有していたシャハナーが、自身の妻または娘(どちらも偶然にエリーゼという名であった)にこの原稿をプレゼントする際に、後から書き加えた可能性が高いという極めて現実的な推測を提示しています。なんとなんと以外でつまらない結末。意図的に書き換えたシンドラーの悪質さはありませんが、後世のものをこれだけ振り回しておいて。。。。

今日において「エリーゼ」の真の正体は依然として確定していませんが、この一連の学術的論争は、音楽学における一次史料の解釈の難しさと、後世のロマン主義的な願望がいかに歴史的事実を歪曲し得るかを示す格好の事例となっています。しかし同時に、エリザベート・レッケルがその最有力候補として現代の最高峰の学者たちに真剣に議論されるほど、彼女がベートーヴェンの精神的・感情的領域の極めて近い場所に存在していたことは揺るぎない事実です

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