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フンメルの妻: エリザベート・レッケル

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18世紀末から19世紀中葉にかけてのヨーロッパ音楽界は、宮廷や貴族によるパトロン制度が解体し、市民階級を主体とする公開演奏会や楽譜出版が音楽家の主要な経済基盤へと移行する、極めてダイナミックな歴史的転換期にありました。同時に美学的な観点においても、ウィーン古典派が確立した厳格な形式美と理性的な調和から、個人の内面的な感情表出と圧倒的なヴィルトゥオーソ(超絶技巧)を希求する初期ロマン派へと、その価値観の重心が急激に移動していた時期でもあます

J.N.フンメルはこのパラダイムシフトの中心において、モーツァルトの直弟子として古典派の正統な系譜を受け継ぎながら、同時に次世代のロマン派の巨匠たちへとその技巧と精神を橋渡しする極めて重要な役割を担ったこととなります。そして、そのフンメルのキャリアを公私にわたって強固に支え、ベートーヴェンをはじめとする同時代の天才たちと深く交錯しながら、自身もまた独自の芸術的ネットワークを構築した存在が、妻でありソプラノ歌手であったエリザベート・レッケル(Elisabeth Röckel 15 March 1793 – 3 March 1883)です。

今回は、私が手に入れられる範囲での音楽学的な一次史料と近年の関連ニュースに基づき、エリザベート・レッケルの生い立ちから晩年に至るまでの生涯、彼女のウィーンおよびヴァイマルにおける広範な文化的人脈、ベートーヴェンの有名なピアノ小品『エリーゼのために(Für Elise)』を巡る熾烈な学術的論争の詳細、さらには夫フンメルの音楽的業績と彼らが後世に残した歴史的遺産について、可能な限り多角的に考察しようと思います。フンメルの生涯とともに彼女の足跡を辿ることは、単なる一組の音楽家夫婦の伝記的追及にとどまらず、19世紀ヨーロッパにおける芸術家の社会的地位の変容、音楽ビジネスの近代化、そしてリスト以降に忘れられて行くことになったフンメルの音楽史の中での立ち位置を再確認していく試みと言えます。

1.エリザベート・レッケルの生い立ちと初期キャリア
ウィーンの劇場文化のなかで

作者: ヨーゼフ・ヴィリブロート・メーラー(Joseph Willibrord Mähler)

制作年: 1814年頃    所蔵先: ゲーテ博物館(ドイツ・デュッセルドルフ)

音楽一家における誕生とウィーンへの移住メカニズム

エリザベート・レッケル(洗礼名:マリア・エヴァ)は、1793年3月15日、神聖ローマ帝国領内のバイエルン選帝侯国ノインブルク・フォルム・ヴァルトに生まれました。父親のヨーゼフ・アウグスト・レッケル(当時36歳)と母親のマリア・エリザベート・ディーマンド(当時37歳)のもとに生まれた彼女は、幼少期から極めて濃厚な音楽的環境のなかで育ちます。当時のバイエルン地方はカトリックの宗教音楽や宮廷音楽が盛んであり、こうした環境が彼女の基礎的な音楽的素養を育んだと推測されます。

彼女の人生における最初の、そして最も決定的な転機は、実の兄であるオペラ歌手ヨーゼフ・アウグスト・レッケル(1783–1870)の存在でしょう。テノール歌手として頭角を現していた兄ヨーゼフは、1806年にウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で上演されたベートーヴェンのオペラ『フィデリオ』(第2稿)において、主要キャストであるフロレスタン役を演じるという大抜擢を受けたらしい。この歴史的公演の成功と兄のウィーン音楽界における地位の確立に伴い、同年、弱冠13歳であったエリザベートもまた兄を頼って帝都ウィーンへと移住することとなったと考えられます

当時のアン・デア・ウィーン劇場は、単なる興行のための建築物にとどまらず、多数の音楽家や舞台関係者が居住する巨大なコミュニティ、いわば「芸術的エコシステム」を形成していた。エリザベートは兄と共にこの劇場の共同アパートに居住することとなり、当時の居住者名簿には彼女の名が「Elis Rökel」として明確に記録されていたとwikipediaiでは書かれています。10代前半の多感な時期に、当時のヨーロッパ音楽の最高峰たるウィーンの劇場文化の中心に身を置いたことは、彼女の芸術的感性を飛躍的に成熟させる要因となったものと思われます。

人脈の構築とソプラノ歌手としての飛躍

劇場内での生活は、必然的に当時のトップクラスの音楽家たちとの日常的な接触を生み出したことでしょう。彼女の居住していたアパートの別の部屋には、『フィデリオ』のタイトルロール(レオノーレ役)を演じた有名なソプラノ歌手、アンナ・ミルダー=ハオプトマンが家族と共に住んでおり、エリザベートは彼女と生涯にわたる親密な友人関係を築くこととなりました。当時のウィーンにおける音楽家の社会的ネットワークは、こうした物理的な近接性と日常的な共演を通じて構築されることが多く、エリザベートはこの交友関係を足がかりとして、ウィーンの音楽的インナー・サークルの中核へと急速に入り込んでたのでしょう。

才能豊かなソプラノ歌手として順調に成長したエリザベートは、1810年4月、ウィーンから離れてバンベルクの劇場と契約を結び、モーツァルトの傑作オペラ『ドン・ジョヴァンニ』における悲劇のヒロイン、ドンナ・アンナ役で正式な舞台デビューを飾りました。17歳という若さで、極めて高度な声楽的技術と深い劇的表現力が要求されるドンナ・アンナ役を務め上げた事実は、彼女がいかに卓越した才能と実力を備えていたかを如実に物語っています。さらにバンベルク滞在中には、ロマン派を代表する幻想作家であり、自身も作曲家・音楽評論家として活動していたE.T.A.ホフマンとも親交を結んでいる。エリザベートが単なる「高名な音楽家の妻」や「巨匠のミューズ」という受動的な存在にとどまらず、第一線で活躍する自立した芸術家として、広範かつ高度な知的人脈を形成していたことは、彼女の生涯を評価する上で極めて重要な視点である。ここらの詳細はwikipediaに詳しく書かれています。

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