
フンメルのピアノ協奏曲
古典派とロマン派の狭間に存在したブラインドスポット

序:「音楽史のブラインドスポット」の再考
18世紀末から19世紀前半にかけての西洋音楽史において、ヨハン・ネポムク・フンメル(1778年–1837年)ほど、その生前の圧倒的な栄華と死後の急速な忘却との間に激しい落差が存在する作曲家は稀である。現在のスロバキアのブラチスラヴァ(当時のハンガリー王国プレスブルク)に生まれたフンメルは、わずか8歳でウィーンのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトに見出され、彼の邸宅(大シューレ通り)に2年間にわたり住み込みで無償の指導を受けた。その後、ロンドンでムツィオ・クレメンティに師事し、ウィーン帰還後にはアントニオ・サリエリ、ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー、そしてフランツ・ヨーゼフ・ハイドンという、当時のヨーロッパ音楽界における最高峰の知性たちから作曲と鍵盤楽器の教えを受け。彼は同時代において、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンと肩を並べる、あるいは特定の愛好家層においてはそれを凌駕する最高峰のヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして君臨した。
私のWebサイト「J.N.フンメルの研究ノート」(参照①)でも公開 しているフンメルのピアノ協奏曲群は、モーツァルトが確立した古典派の均整の取れた形式美から、フレデリック・ショパン、フランツ・リスト、フェリックス・メンデルスゾーンらが花開かせたロマン派の超絶技巧と情緒的表現へと至る、音楽史上の「移行期(過渡期)」を体現する極めて重要な作品群である。本論考では、フンメルのピアノ協奏曲が音楽史において果たした役割、社会的・楽器史的な作曲背景、当時の評価から現在に至るまでの評価の変遷を様々な文献や資料から多角的に分析するとともに、現在確認されている主要なピアノ協奏曲の全曲解説を通じて、その音楽的真価と歴史的意義を浮き彫りにしたいと思う。
§1. 作曲された時代背景とフンメルの社会的立ち位置
フンメルのピアノ協奏曲が作曲された18世紀末から19世紀前半は、フランス革命とそれに続くナポレオン戦争によって、ヨーロッパの政治・社会構造が根底から覆された激動の時代であった。この社会構造の変革は、音楽の生産と消費のあり方にも劇的な変化をもたらした。
宮廷楽長から近代的なフリーランス音楽家へ
フンメル自身のキャリアは、旧来のパトロン制度と近代的なフリーランス音楽家という2つの時代の境界線を歩むものであった。1804年、彼はかつてハイドンが長年務めたエステルハージ家のコンサートマスター(事実上の楽長)に就任し、アイゼンシュタットの宮廷でオーケストラやオペラ、宗教音楽の運営に携わった。
有名な『トランペット協奏曲 ホ長調』(1803年)は、この時期にアントン・ヴァイディンガーのキートランペットのために書かれたものである。
しかし、1811年に職務怠慢を理由に解雇(参照②)された後、彼はヨーロッパ全土を巡る大規模な演奏ツアーを展開し、各地で熱狂的な成功を収めた。(参照③)
その後、シュトゥットガルト(1816年〜)およびヴァイマル(1819年〜1837年)で宮廷楽長を務めながらも、彼は頻繁に演奏旅行に出かけ、自作の楽譜出版や演奏会の入場料で多額の富を築いた。ヴァイマル時代にはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテやフリードリヒ・シラーと親交を結び、同地をヨーロッパの音楽的中心地の一つへと変貌させた。(参照④)
特筆すべきは、フンメルが演奏家のための年金制度の設立を主導し、また海賊版対策として楽譜の著作権保護をヨーロッパで最初期に提唱した音楽家の一人であったことである。(参照⑤) そして彼のピアノ協奏曲は、大ホールでの公開演奏会で聴衆を熱狂させるための「ヴィルトゥオーゾ的スペクタクル」と、楽譜として広く出版・販売される「商品」という、近代的な二面性を持って作曲されたのである。
ベートーヴェンとの対峙とビーダーマイヤー文化
ウィーンにおけるフンメルの立ち位置を語る上で、ベートーヴェンとの関係は避けて通れない。若き日にウィーンで出会って以来、
もっと前にモーツァルト家に住み込みしていた時期、ベートーヴェンがモーツァルト家を訪れた際に出会っていた可能性もある
ベートーヴェンの圧倒的な存在感は一時的にフンメルの自信を喪失させたと言われるが、やがて両者はライバルとして、また友人として互いを認め合う関係となった。(参照⑥) フンメルのピアノ奏法はモーツァルト直系の明晰さ、優雅な旋律、そして芸術的抑制を基盤としつつ、そこに独自の高度な技巧を付加したものであった。(参照⑦)
一方、ベートーヴェンの演奏はスケールが大きく情熱的であった。当時の保守的なウィーンの聴衆の中には、ベートーヴェンの打楽器的でペダルを多用する演奏を「騒々しく、不自然で、ペダル過多で、汚く、混乱している」と批判し、フンメルの洗練された透明なタッチを至高とする派閥が明確に存在した。(参照⑧)
フンメルの音楽は、ナポレオン戦争後のウィーン体制下における「ビーダーマイヤー(Biedermeier)」文化と深く結びついていた。政治的な抑圧の下、市民階級が家庭内の平穏や日常の洗練された美を求めたこの時代において、フンメルの極めて洗練され、極端な感情の爆発を避ける協奏曲は、新興ブルジョワジーの美意識に完璧に合致していたのである。
