
5.ヴァイマル時代:ゲーテとの交遊

1816年から1819年までのシュトゥットガルトにおける宮廷楽長職(作曲の時間が確保できないという理由で不満を抱いていた)を経て、1819年、フンメルはザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の首都ヴァイマルにおいて、宮廷楽長の地位を受諾した※。この地位は、彼に安定した高額の収入を約束すると同時に、年間数か月に及ぶ有給休暇(演奏旅行のための期間)を認めるという、当時としては極めて異例かつ破格の好待遇でした。フンメルは1837年に逝去するまでこの地位にとどまり、彼のキャリアはここに頂点を迎えることとなります※。
19世紀初頭のヴァイマルは、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテを擁し、フリードリヒ・フォン・シラーの遺産が息づく、ドイツ精神史・文化史における最高峰の中心地でした。フンメルはゲーテと極めて深い個人的親交を結び、彼の邸宅に頻繁に出入りしました。フンメルはゲーテからシラーの詩の真価を学び、逆にゲーテはフンメルのピアノ演奏に深い感銘を受けたという(ゲーテはフンメルの演奏を「ナポレオンが世界を支配するようにピアノを支配している」と高く評価したとされる)※。
※エッカーマン著「ゲーテとの対話」でもゲーテのフンメル評価が言及されています。
ヴァイマルの宮廷楽長としてのフンメルの特権の一つは、彼がツアー中に出会った最高水準の音楽家たちを自由にヴァイマルに招聘できたことです。彼は自身の裁量でヨーロッパ各地からヴィルトゥオーソたちを招き、宮廷での特別公演や、音楽家の未亡人・孤児を支援するための年金基金コンサートなどを積極的に主催しています※。結果として、小国の一都市に過ぎなかったヴァイマルは、フンメルの存在によってヨーロッパにおける「非公式な音楽の首都」へと変貌を遂げたました※。
エリザベートもまた、ヴァイマルの高度な社交界において「宮廷楽長夫人(Frau Capellmeisterin)」として重要な位置を占めています。彼女の洗練された振る舞いと、ウィーン時代に培ったトップクラスの芸術家たちとの幅広いネットワークは、ヴァイマルの文化人たちの交流を円滑にする潤滑油となった※。さらに夫妻は、次世代の才能の発掘と育成にも関与しています。
また大きな出来事として1828年のワルシャワでのコンサート・ツアー中、フンメルは無名時代のフレデリック・ショパンと出会っています。フンメルは若きショパンの非凡な才能を見抜き、「自分自身を信じて、そのまま進み続けなさい」と強力な激励を与えた※。ショパンは後にウィーンでフンメルと再会した際、友人に宛てた手紙の中で「フンメルおじさんは非常に親しみやすく、素晴らしい人だ」と記しており、自身のピアノ協奏曲においてもフンメルのピアニズムから多大な影響を受けている※。
6.ベートーヴェンの死の床における歴史的逢座と遺物

フンメル夫妻のヴァイマル時代において、歴史的に最も重い意味を持つ出来事は、1827年のベートーヴェンの死に際してのウィーン訪問である。
1827年3月、ベートーヴェンが重病で死の床にあるという報せを受けたフンメルは、妻のエリザベート、そして当時フンメルの弟子であったフェルディナント・ヒラーを伴って、急遽ウィーンへと向かった※。ベートーヴェン自身も、死が迫る中でエリザベートの見舞いを強く望み、学生と秘書を遣いに出して彼女を呼び寄せたと記録されています※。
この最後の面会は、極めて感動的かつ象徴的なものでした。長年のライバルであり友人であったベートーヴェンの衰弱しきった姿を見たフンメルは堪えきれずに涙を流し、エリザベートは自身のハンカチで、死の床にあるベートーヴェンの額に浮かぶ汗を優しく拭ったという※。ベートーヴェンが1827年3月26日に息を引き取る直前の1週間に、エリザベートは二度にわたって彼を見舞った※。
この時、エリザベートはベートーヴェンから直接、後の音楽史において極めて重要な意味を持つ二つの遺品を贈られています。 第一に、死の数日前にベートーヴェンの頭部から切り取られた遺髪の束です※。 第二に、ベートーヴェンが文字通り生涯最後に使用した鵞鳥の羽ペン(quill)である※。このペンは、ベートーヴェンが死の数時間前に遺言書(コディシル)に署名し、マインツの楽譜出版者ショット社への感謝の手紙を書くために使用したものであったということです※。
エリザベートはこれらの品を単なる記念品以上の、一種の聖遺物として生涯にわたって大切に保管したそうです。約半世紀が経過した1877年2月6日、彼女はこれらの品々を他の記念品と共に額装し、自らの手で「このペンでベートーヴェンは最後の言葉を書いた」という証明書を添えています※。現在、このペンをはじめとする遺品の多くはデュッセルドルフのゲーテ博物館に所蔵されており、遺髪の一部は1934年にフィレンツェで子孫のヴィルヘルム・フンメルによって再発見されました※。ミヒャエル・ローレンツが「エリーゼのために」の自筆譜の論争において指摘した通り、これほどまでにベートーヴェンとの精神的な絆を尊び、その遺品を死ぬまで手放さなかったエリザベートが、自分宛てに書かれたとされる自筆譜だけを簡単に手放すことは論理的に説明がつきません※。
ベートーヴェンの葬儀は、ウィーン中が喪に服す大規模なものとなりました。フンメルは棺の担ぎ手(pall-bearer)という重責を担い、墓穴に3つの月桂樹の冠を投げ入れて偉大な友への最後の手向けとしたという記録があります※。さらにその数日後、ベートーヴェンの生前の希望に従い、追悼のチャリティー・コンサートにおいて追悼の即興演奏を行いました。フンメルはオペラ『フィデリオ』の「囚人の合唱」や、交響曲第7番の重々しいアレグレットの主題を見事に絡め合わせた感動的なインプロヴィゼーションを披露し、聴衆の涙を誘ったとのこと※。
また、この追悼行事の期間中、フンメルはフランツ・シューベルトとも親交を結んでいます。シューベルトはフンメルの卓越した音楽性に深く傾倒し、自身が作曲した生涯最後の3つのピアノ・ソナタ(D958, D959, D960)をフンメルに献呈することを決意しました。しかし、これらのソナタが出版された際(1839年)には、シューベルトだけでなくフンメルもすでに故人となっていたため、出版社(ディアベリ)の判断によってロベルト・シューマンへの献呈に変更されるという歴史をたどることとなりました※。
