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音楽史におけるエリザベート・レッケルの存在

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制作時期: 1814年頃(推定) 画家: 作者不詳(ウィーンの画家によるものと考えられています)所蔵先: ゲーテ博物館(ドイツ・デュッセルドルフ)

エリザベート・レッケル(マリア・エヴァ・フンメル)の生涯を俯瞰するとき、彼女を単に「偉大な作曲家の献身的な妻」あるいは「ベートーヴェンのミューズの候補者」という従属的な枠組みで捉えることは、極めて不十分であり、歴史的実態を見誤る危険性を孕んでいます。
彼女は、13歳でウィーンのアン・デア・ウィーン劇場という当時の音楽的最前線に飛び込み、17歳にして『ドン・ジョヴァンニ』の主要キャストとして舞台に立つなど、若くして自立した芸術家であった。ベートーヴェン、E.T.A.ホフマン、ゲーテといった、ヨーロッパ文化史に燦然と輝く巨星たちと対等に渡り合い、彼らの私的な内面領域にまで深く入り込むことができる高い知性と芸術的感性を備えていた人物です。
結婚後は、フリーランスの音楽家という不安定な立場にあった夫ヨハン・ネポムク・フンメルを鼓舞し、彼を国際的なコンサート・ツアーへと押し出すことで、現代にまで通じる「自立した演奏家(ツーリング・アーティスト)」のビジネスモデルを確立する上で不可欠なプロデューサー的役割を果たしました。ヴァイマルにおいては、宮廷楽長の妻として、ヨーロッパ中から集まる音楽家たちを繋ぐ強固なヒューマン・ネットワークの結節点として立ち回っています。
そして、ベートーヴェンの死の床において遺髪と最後のペンを直接託されたという歴史的事実は、彼女がいかに同時代の天才たちから深い精神的信頼と愛情を寄せられていたかを、いかなる文献よりも雄弁に証明していることにならないでしょうか。フンメルの死後、フランツ・リストに代表される新しいロマン派の怒涛の潮流に抗いながらも、亡き夫の古典的遺産とその美学を頑なに守り抜こうとした彼女の姿勢は、音楽史が古典派からロマン派へと転換期を迎える際の、個人のレベルにおける複雑な摩擦と葛藤を鮮やかに物語っています。
エリザベートは1883年3月3日、89歳という当時としては長寿を全うし、その波乱と栄光に満ちた生涯を閉じました。彼女は現在、ヴァイマルの歴史的墓地(Historischer Friedhof)の東壁沿いにおいて、夫フンメルと共に静かに眠っています。

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エリザベートの墓

モーツァルトの薫陶を受けたフンメルと、ベートーヴェンに深く愛されたエリザベート。この二人の結びつきと、彼らがその生涯を通じて築き上げた広範なネットワークは、19世紀のヨーロッパ音楽が古典主義の調和と秩序からロマン主義の激情へと橋渡しされるプロセスを紐解く上で、極めて豊かで示唆に富む歴史的テクストを提供し続けています。

文中※は参照したネットで確認できる情報です。
その他の参考文献
ニューグローヴ世界音楽大辞典より フンメルの項 ジォエル・ザックス(訳:大崎滋生)
ヨハン・ネポムク・フンメル~音楽家の生涯と世界~ マーク・クロル著/洋書
イギリスとフランスにおける楽長 ジォエル・ザックス著/洋書
古典と古典主義の間で~ウィーンとワイマールのヨハン・ネポムク・フンメル 論文集/洋書
西洋音楽の歴史(下) 柴田南雄/音楽之友社
音楽史シリーズ4 古典派の音楽 R・G・ポーリィ著/東海大学出版会
音楽史シリーズ5 ロマン派の音楽 R・M・ロンイアー著/東海大学出版会
ピアニストの歴史 パウル・ローレンツ著/芸術現代社
パリのヴィルトゥオーゾたち~ショパンとリストの時代~ ヴェルヘルム・フォン・レンツ著/ショパン
文献に見るピアノ演奏の歴史 ウリ・モルゼン著/シンフォニア
19世紀のピアニストたち 千蔵八郎著/音楽之友社
音楽家の社会史~19世紀ヨーロッパの音楽生活~ 西原稔著/音楽之友社
大作曲家シリーズ リスト エヴェレット・ヘルム著/音楽之友社
大作曲家シリーズ シューベルト エルンスト・ヒルマー著/音楽之友社
大音楽家・人と作品シリーズ7 ショパン 河上徹太郎著/音楽之友社

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