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3.ヨハン・ネポムク・フンメルのキャリア

エステルハージ家の宮廷楽長からフリーランスへの転身

エリザベートの伴侶となるヨハン・ネポムク・フンメルは、彼女のキャリアを理解する上で不可分の存在である。生い立ちに関してはすでに多くのメディアで紹介されており、私自身のWebサイト【Hummel Note】でご確認いただければと思います。

 

話は1793年に修行と演奏旅行を兼ねたロンドンまでの長年の旅行からウィーンに帰還した時期から始めたいと思います。

フンメルは、演奏活動を一時的に控え、ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー、ハイドン、そしてアントニオ・サリエリという、当時のウィーンを代表する最高峰の理論家・作曲家たちのもとで対位法や作曲技法を基礎から学び直しています。この時期、同じくハイドンやアルブレヒツベルガーに師事するためにボンからウィーンへやって来た若きベートーヴェンと出会っています。ベートーヴェンの圧倒的で野性的な即興演奏は、端正でモーツァルト的な美しさを重んじるフンメルの自信を一時的に打ち砕いたとされるが、やがて両者は互いの才能を認め合い、時には激しく対立し、時には和解を繰り返すという、複雑ながらも深いライバル関係かつ友人関係を築き上げていきました

1804年、26歳となったフンメルは、かつての恩師ハイドンの推薦と後任として、エステルハージ侯爵家のコンサートマスター(事実上の宮廷楽長)という極めて名誉ある地位に就任しました。彼はアイゼンシュタットの宮廷で7年間にわたり職務を務め、5つの大規模なミサ曲を含む宗教音楽、ピアノ協奏曲、数多くの室内楽や演劇用音楽を精力的に作曲しています。しかし、職務怠慢などを理由に1808年に一度解雇され(ハイドンの口利きで復職)、最終的に1811年5月に完全に解雇されるという憂き目に遭います

宮廷の安定した庇護を失ったフンメルはウィーンに戻りましたが、彼の人気はオペラ、バレエ音楽、宮廷の舞踏会用音楽、ジュリアーニやシュボアといった当時の大演奏家たちとのコラボコンサートなど忙しくしておりましたが、フンメル自身は自分はどうあるべきかと悩んでいたという時期でもあり、フリーランスの作曲家兼ピアニストとしての道を模索し始めています。ピアニストとしての評価よりピアノ教師としての重要が多かったこの時期、フンメルは、モーツァルト直伝の流麗なタッチとクレメンティ譲りの確かな技術を融合させた独自のピアニズムを確立し、ウィーン楽壇においてベートーヴェンと双璧をなす存在として高く評価されてもいました

4.結婚と二人三脚のヨーロッパ制覇
マネジメントと著作権

wikiなどで張られているこの肖像画がエリザベート・レッケルとしてい掲載されていますが、実はこちらの絵に描かれているのは別の女性です。

肖像画はルイーゼ・ミーラ夫人の肖像(Frau Luise Mila)で作者は ヨハン・エルトマン・フンメル(Johann Erdmann Hummel, 1769–1852)という画家です。ヨハン・ネポムク・フンメルとも息子の画家となったカール・マリア・ニコラウス・フンメルとも別人です。旧国立美術館(Alte Nationalgalerie)/ドイツ・ベルリン所蔵です。

1813年5月16日、ウィーンにおいて、フンメルとエリザベート・レッケルは結婚式を挙げています。この時フンメルは34歳、エリザベートは20歳です。結婚式では、フンメルの恩師の一人である高名な作曲家アントニオ・サリエリが介添人を務めました。結婚前、ベートーヴェンがエリザベートに強い好意を寄せていたことが両者の間に緊張をもたらしたとする見方も言われていますが、エリザベート自身は後年、結婚後もベートーヴェンは常に敬意を持って自分に接してくれたと回想しており、二人の関係は芸術家としての相互尊重に基づくものであったと思われます

エリザベートは結婚を機にオペラの舞台からは退いてしまいましたが、それは単なる家庭への引退を意味するものではありませんでした。彼女は夫フンメルの比類なき才能を誰よりも深く理解しており、彼のキャリアをさらに広大な国際的ステージへと押し上げるための強力なプロデューサー的役割を担うこととなったのです。当時のフンメルは定職を持たず経済的な不安を抱えていたことはすでに述べましたが、エリザベートは彼に対して、自らの足でヨーロッパ中を巡り、その技術と作品を直接聴衆に届けるコンサート・ツアーの再開の強い後押しをしました

1814年、ウィーン会議というヨーロッパ中の王侯貴族や文化人が集結する絶好の機会において、フンメルはベートーヴェンの『ウェリントンの勝利』の初演に打楽器奏者として参加(サリエリの指揮下で大太鼓を担当)する一方で、自身のヴィルトゥオーソとしての技術を披露するコンサートを積極的に開催しました。ウィーン会議では各国の首脳や王族・貴族が集まっており、高い評価を受けたことで方々に呼ばれるきっかけとなったのです。これを皮切りに、夫妻はロシア、ドイツ、フランス、イギリス、オランダ、ポーランドなど、ヨーロッパ全土を網羅する長大かつ過酷な演奏旅行を展開していきました

この少年期依頼のツアーは、音楽ビジネスの歴史という観点からも画期的なものでした。産業革命と市民社会の成熟に伴い、音楽の享受層は一部の王侯貴族から新興ブルジョワジーへと急速に拡大していた背景もあります

 

フンメルはこの巨大な新市場に向けて自身の作品を売り込み、各都市の聴衆の好みに合わせた楽曲を戦略的に提供し、さらに彼は、異なる国の複数の出版社と同時に良好な関係を築き、楽譜の国際的な著作権保護の確立に向けて先駆的な実務交渉を行っていくこととなります。こうした近代的な「コンサートツアー」としてのビジネスモデルの構築と成功の裏には、巡業のスケジュール管理から要人との折衝まで、妻エリザベートの献身的なマネジメントと社交的手腕が不可欠であったことは想像に難くないです。若いのにすごいやり手ですね。

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