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§2.ピアノ協奏曲が音楽史的に果たした役割

フンメルのピアノ協奏曲群は、古典派とロマン派を繋ぐ単なる「過渡期の遺物」ではなく、以下の3つの次元において音楽史を前進させる決定的な役割を果たした。

1. フォルテピアノの限界拡張と技巧の革新

 

フンメルの協奏曲は、当時のウィーン式アクションを持つフォルテピアノの性能と密接に結びついて作曲されている。ウィーン式のアクションは、同時代のイギリス式やフランス式(エラール、プレイエルなど)の重厚で響きの長いピアノとは異なり、鍵盤が非常に軽く、音の立ち上がりと減衰が極めて速いという特性を持っていた。(参照⑨)

フンメルはこの楽器の物理的特性を逆手に取り、音が持続しない分を、真珠の首飾りに例えられる透明感のある急速なスケール(音階)、広音域の跳躍、精緻なアルペジオ、そして細やかなトリルなどの装飾音で埋め尽くすという作曲技法を開拓した。彼の要求した技巧は当時の楽器のポテンシャルを極限まで押し広げるものであり、ベートーヴェン以後の厚みを増したオーケストラのテクスチュア(管楽器の独立性の向上やトゥッティの強奏)に対抗しうるだけの音響的輝きをピアノ・パートに付与したのである。(参照⑩)

2. 記譜法と演奏実践のパラダイムシフト(「作品」概念の確立)

 

古典派の時代、とりわけモーツァルトのピアノ協奏曲において、ソロ・パートの装飾やカデンツァは演奏者の即興能力に大きく委ねられていた。楽譜はいわば演奏のための「骨組み」に過ぎなかった。しかし、18世紀末から19世紀初頭にかけての市民階級の台頭は、音楽の消費構造を劇的に変化させた。楽譜出版業がヨーロッパ規模でネットワークを広げ、高度な即興能力を持たない中産階級のアマチュアやプロの演奏家が、こぞって新作の楽譜を買い求めるようになったのである。

フンメルは、この社会構造の変化に最も鋭敏に対応した。彼は自身の集大成である1828年の著書『ピアノ奏法(Klavierschule)』の中で、協奏曲が「新たな形式」を獲得したことを明言している。彼は、かつては即興で行われていたカデンツァやフェルマータ部分の装飾、さらには旋律の細やかな装飾音符のすべてを、作曲家自身の責任において楽譜上に正確に書き記す(written-out)手法を確立した。(参照⑪) これは、演奏の場における即興的・一過性の出来事であった協奏曲を、作曲家の意図が完全に固定化された「自律的な芸術作品(Werk)」へと押し上げる決定的な変化であった。

3. 初期ロマン派(ショパンとリスト)への直接的系譜

 

フンメルの音楽史的立ち位置を語る上で最も重要なのは、彼がフレデリック・ショパン、フランツ・リスト、フェリックス・メンデルスゾーンら次世代のロマン派の巨匠たちに直接的な文体論的モデルを提供したという事実である。

特にショパンは、フンメルの『ピアノ協奏曲 イ短調(Op.85)』および『ロ短調(Op.89)』を深く研究し、自身のピアノ協奏曲の構造的・語法的なモデルとした。オーケストラの控えめな伴奏に乗せて、ピアノが優美なベルカント的旋律を装飾的に歌い上げるスタイルや、連続する3度・6度の重音、鍵盤全体を駆け巡る分散和音などのピアニスティックな語法は、完全にフンメルの遺産である。1828年にワルシャワでフンメルと出会った若きショパンは、大巨匠からの賞賛と激励に深く感銘を受け、自らの進むべき道に確信を持った。(参照⑫)  また、リストがパリでのデビュー・コンサートでフンメルのロ短調協奏曲(Op.89)を選んだことは、当時の次世代ヴィルトゥオーゾたちにとってフンメルの作品が「最高峰の模範」であったことを証明している。

§3.評価の歴史的変遷

当時の評価:神格化された巨匠

 

生前のフンメルは、ヨーロッパ全土で神格化された名声を享受していた19。彼はモーツァルトの正統なる後継者にして、ウィーンのピアノ界の頂点に君臨するヴィルトゥオーゾであり、その人気と経済的成功はシューベルトを遥かに凌ぎ、ベートーヴェンと同等に扱われていた。彼のピアノ協奏曲が出版されると、ヨーロッパ中のピアニストがこぞってそれを演奏し、音楽愛好家たちはその楽譜を買い求めた。

ロベルト・シューマンは、フンメルの多くの作品(特に表層的な変奏曲や小品)に対してはしばしば批判的な態度をとったが、イ短調やロ短調のピアノ協奏曲、そしてピアノ・ソナタ(嬰ヘ短調 Op.81)などの主要作品群に対しては深い敬意を払い、当時のピアニストにとっての試金石(ショーピース)であると評価していた。

後世の評価:楽器の近代化と美学の変容による忘却

 

しかし、1837年にフンメルがこの世を去ると、驚くべき速さで彼の名声は色褪せ、その協奏曲群は主要なレパートリーから姿を消した。(参照⑬) これほど著名であった作曲家が歴史の忘却の淵に沈んだ背景には、2つの構造的な要因がある。

第一に、ピアノという楽器の物理的な進化の歴史との不和である。19世紀中葉に向けて、ピアノは鉄製の強固なフレームを備え、アクションが重く、より巨大な音量と長いサステイン(残響)を持つ近代的なモダン・ピアノ(スタインウェイなどに代表される)へと進化した。フンメルの協奏曲は、音の減衰が速く軽快な「ウィーン式アクション」のフォルテピアノで演奏されることを前提に、音の隙間を埋めるための極めて微細なパッセージやアルペジオで埋め尽くされている。これをサステインの効きすぎる近代ピアノでそのまま演奏すると、音が混濁し、過度に装飾的で重苦しいだけの「空虚な技巧の羅列」に聞こえてしまうのである。

第二に、美学的イデオロギーの転換である。後期ロマン派から20世紀にかけての西洋音楽の価値観は、「苦悩を突き抜けて歓喜へ」至るベートーヴェン的な深遠な精神性や、ワーグナー的な思想的・感情的重みを至高とする見方に支配された。この視点から見ると、優雅で洗練され、極端な情念の爆発を避けたフンメルの音楽は、市民社会の平穏な日常を愛する「ビーダーマイヤー的」な軽薄さ、あるいは実質を伴わない表層的な技巧主義として低く見積もられるようになったのである。また何よりも作曲家兼演奏家という音楽家事情が音楽家という芸術家に変化したことも大きい。音楽史家たちは長らく、古典派の頂点(モーツァルト、ベートーヴェン)とロマン派の頂点(ショパン、シューマン)の間の期間を単なる「谷間」として扱い、フンメルの革新性を見落としてきた。

現在の評価:HIP運動(ピリオド楽器)による復権

 

20世紀後半から現在に至り、古楽運動(Historically Informed Performance = HIP)の隆盛とともに、フンメルに対する学術的および演奏面での再評価が飛躍的に進んできた。歴史的見解からの古楽演奏と古楽器演奏だけではなく、埋もれていた作曲家たちの再発見が進んでいったのである。

1980年代に世に出たスティーヴン・ハフ(Stephen Hough)のフンメルの協奏曲は多くのインパクトともにフンメルの再復興活動を加速させたと言っていいだろう。その後ハワード・シェリー(Howard Shelley)らをはじめ優れた録音を通じ、フンメルの協奏曲が持つ「古典派の構築主義とロマン派の抒情主義を繋ぐ「音楽史のブラインドスポット」としての真価が広く認知されるようになった。今日において、フンメルは「忘れられた作曲家」から、19世紀初頭のヴィエンナ・サウンドの真髄を伝える最重要人物へと完全に地位を回復しつつある。

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