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7.美学的な断絶と新時代の到来:フンメルの晩年とフランツ・リストとの軋轢

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作者: フリードリヒ・ペヒト(Friedrich Pecht)- ドイツの歴史画家・肖像画家 制作年: 1845年 所蔵先: ゲーテ博物館(ドイツ・デュッセルドルフ)

フンメル・スタイルの黄昏

1830年代に入ると、ヨーロッパの音楽界における美学的な地殻変動は決定的なものとなりました。フンメルは1828年に全3巻、約500ページ、2000以上の譜例を含む記念碑的な教育書『ピアノフォルテ奏法に関する完全な理論的・実践的指導書』を出版し、ピアノ教育における金字塔を打ち立てました。この著作は西ヨーロッパ中の音楽家から渇望され、後世に計り知れない影響を与えています。

しかし、この時期を境に、演奏家としてのフンメルの人気には明確な翳りが見え始めています。フランツ・リストやニコロ・パガニーニに代表される、嵐のような情熱と限界を突破する超絶技巧(bravura)を前面に押し出した新時代の「ヴィルトゥオーソ」たちが聴衆を熱狂させるようになり、それとは対極にあるフンメルの均整の取れた古典主義的バランスや、真珠を転がすような流麗な弾き方は、次第に「時代遅れ(old-fashioned)」と見なされるようになっていきました。1831年のロンドン公演では、パガニーニのセンセーショナルな派手さに押され、フンメルの評価は相対的に沈下していったのです

作曲の筆も次第に遅くなり、自身の健康状態も悪化する中、ゲーテが1832年に逝去したことは、フンメル夫妻のヴァイマルにおける精神的な拠り所を大きく揺るがし多と思われます。そして1837年10月17日、ヨハン・ネポムク・フンメルもヴァイマルで息を引き取りました。モーツァルトの息吹を直接受け継ぐ最後の巨匠の死は、一つの時代の終焉を象徴しているといえるでしょう。

ヴァイマルにおける新旧の対立とフランツ・リスト

フンメルの死後、エリザベートは「宮廷楽長の未亡人(Hofkapellmeisters Witwe)」としてヴァイマルにとどまり、半世紀近くに及ぶ長い余生を過ごすこととなります。彼女は1837年10月、ウィーンの音楽家未亡人・孤児支援団体(Tonkünstler-Societät)に対して夫の死後の年金に関する公式な手紙を書くなど、遺族としての経済的・法的な権利を守る行動を起こしています14。ヴァイマルでの彼女は、公式文書を除き、親しい間柄では主に「ベッティ(Betty)」の名で呼ばれ、兄アレクサンダー・レッケル(宮廷の書記官を務めていた)らと共に静かな生活を送っていた※。

しかし、彼女の生活の拠点であるヴァイマルの音楽的環境は、1848年を境に再び激変します。かつてウィーンでのデビュー公演でフンメルの協奏曲イ短調を演奏したこともある、当時ヨーロッパ最大のスターであったフランツ・リストが、後任の宮廷楽長(Hofkapellmeister)としてヴァイマルに赴任したことです

リスト自身は、芸術家・作曲家としてのフンメルの業績を極めて高く評価し、深い敬意を抱いていたことは事実でしょう。しかし、エリザベートをはじめとするフンメルの遺族や、フンメルの高弟であったフェルディナント・ヒラーたちは、リストの就任とヴァイマル滞在に対して強烈な抵抗感と摩擦を抱いたらしい。その背景には、圧倒的なカリスマ性を持つリストの存在によって、偉大なる先任者である亡き夫フンメルの記憶と功績がヴァイマルから完全に覆い隠されてしまうことへの遺族としての強い危惧があったのでしょう。さらに深刻な理由として、感情の極限までピアノを打ち鳴らすリストの急進的なロマン派的ピアノ・スタイルが、モーツァルトから受け継ぎフンメルが完成させた端正で規律ある古典的ピアニズムの伝統を破壊するものであり、フンメルの作品を正当に表現していないという美学的な怒りがあったのでしょう。

リストは一時、フンメル一家が長年居住していたマリアンシュトラーセ(Marienstrasse)の邸宅のすぐ近くに住んでいた時期もありましたが、エリザベートはリストに対して、夫と同等の音楽家としての敬意を最後まで払うことはなかったと記録されています。この個人的な確執は、単なる感情的なすれ違いにとどまらず、古典派の系譜を受け継ぐ保守派と、後に「新ドイツ派」と呼ばれることになるリストを中心とした急進派との間に横たわる、19世紀中葉の美学的なパラダイムシフトの最前線における衝突を象徴する出来事であったと言えます

8.二人の息子たちの軌跡

フンメルとエリザベートの間には、芸術の道に進んだ二人の息子がおり、彼らの経歴は、音楽と美術という異なる分野において、両親から受け継いだ文化的遺産とその変容を示しています。

特に次男カールの芸術的成功は、彼が経済的な不安なく風景画という自己表現に専念できた背景に、国際的なツアーと著作権交渉によって財を成した偉大な作曲家である父と、それを強固にマネジメントした母エリザベートの存在があったことを示していると言えるでしょう。

Eduard Hummel, Porträt (Aquarell) von Henry Hawkins, London 1838

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エドゥアルト・ヨーゼフ・フンメル (Eduard Joseph Hummel) 1814–1892

長男。1814年にウィーンで誕生。ピアニスト、指揮者、作曲家として音楽の道を歩んだ。偉大な父の影に隠れがちであり、高度な才能を持ちながらもそれを一貫して発展させることができず、一部の文献では「出来損ないの息子(missratener Sohn)」と厳しく評されることもあったという記述もあります※。1841年にヴァイマルで結婚した後、音楽的拠点を求めてアメリカ合衆国へ移住した。ニューヨーク州の裕福な都市トロイにおいて音楽教授(professor of music)として活動し、ヨーロッパの音楽的教養を新大陸へ移植する役割の一端を担い、1892年に同地の息子の家で生涯を閉じた。

カール・マリア・ニコラウス・フンメル (Carl Maria Nicolaus Hummel) 1821–1907

次男。1821年にヴァイマルで誕生。兄とは異なり、美術の世界に進んだ。ヴァイマルの公立美術学校にてフリードリヒ・プレラー(Friedrich Preller)に師事。1842年からイタリア、シチリア、コルシカ島などを旅し、南欧の光と「英雄的風景(heroic landscapes)」の着想を得た。1860年にはヴァイマル美術学校の教授に就任。彼の描くイタリアやチロル・アルプスの風景画は高く評価され、パリのロマン派美術館(Musée de la Vie Romantique)やベルリンの旧国立美術館などに作品が所蔵されている。彼の作品は、ゲーテを中心とするヴァイマルの教養豊かな環境で育まれた視覚的ロマンティシズムを見事に体現している。
1830年に家族でウイーンに赴いた際、ショパンも滞在しており二人は再開しているがその際、カールはショパンの肖像画を描いています。※

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